目を閉じても開けても真っ暗闇で、視覚以外の五感が頼りだった。普段から視覚に頼りっぱなしな人間は、視覚が機能するかしないかで大分変わるという。見えていたのに見えない、距離感が掴めない、どこに何があるのかわからない。確かに大分変わった。とても不安で、とても怖い。そんな真っ暗闇の中を全力疾走していた。自分がこの暗闇の中にいると認識した途端、逃げなければならないと思ったのだ。 何から?わからない。何故?知らない。とにかく逃げなければ。逃げなければいけない。逃げなければ取り返しのつかないことになる。たぶんきっと、それは本能に似た直感だった。 「どうして?」 不意に響いた声に驚いて転んだ。息が荒い。打ち付け擦れた箇所が痛い。足が重い。疲れた。でも逃げないと。 「なんで?」 また、声が響く。びくり、と体が震えたが素早く立ち上がって駆け出した。違う、違うんだ。逃げないと、戻らないと、立ち止まらないと、きっと自分たちは。 「大丈夫だよ」 走る。走る。走る。走る。走る。声から逃げるために。迫り来る得体の知れないものから逃げるために。全てから逃れようとするために。 「どうせ、ゲームなんだから」 △▽△ 遠くから白龍の声が聞こえる。どうやら望美たちを起こしにきて何かしでかしたようだ。慌てたような望美と朔、譲の声がする。自分は右を下にしたまま、目を見開き横たわって騒がしい声を聞いていた。しかし聞くだけであって頭には残らず全て忘却の彼方へと流れていく。部屋の中から見える外はとても良い天気で久々に寝坊もせずに起きれた清々しい朝なのに、何故か寝起きは最悪の気分だった。 何か嫌な夢を見た気がする。でも思い出せない。ただ何かから逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて、終わった。逃げ切れたかはわからない。覚えていないのだから。 「・・・なんだったんだ」 ねっとりとした、妙な感覚が纏わりついている。気持ちが悪い。不思議と寝汗はかいていなかったが、体温がとても低いようだった。 「・・・あんた、なんでそんなに真っ青なのよ」 「・・・さぁ」 まだ横たわってぴくりとも動かずにいたら、が開け放たれた戸から顔を覗かせてため息をついた。呆れたような、不思議そうな目でもうそろそろご飯だよ、と言い残して立ち去る。方角からして居間に向かったのだろう。起き上がることさえ億劫だったがいらぬ心配をかけてはいけないし、さっさと身支度でも済ませて居間にでも向かうことにしよう。しかし、本当、夢見の悪すぎる朝だった。 △▽△ 「弁慶さん。これ、読み終わったのでお返しします」 朝食のあと、弁慶の下へと訪れた。五条大橋の一件があってから弁慶について簡単にではあるが薬学を学んでいる。元々興味があった分野であるし、難しいことばかりであるが自分の知らないことを知るのはとても楽しいと思う。復習は大嫌いではあるが。だからいつも成績が悪いんだよ、とよくいわれたものだ。 「もう読んでしまわれたんですか?」 「あ、はい、まぁ」 「随分と早く、読めるようになったんですね」 「慣れましたから」 にこり。笑って近寄ってきた弁慶の手に本を渡した。失礼ではあるが、この部屋に踏み入ることができるのは弁慶だけだと思っている。傍からみれば足の踏み場がないのだ。こんな部屋、どうやって入れというのだろう。そういう考えを察してか、弁慶はいつも戸口まででてきてくれている。いろんなものを踏んだりよけたりして。そんなことをするくらいなら掃除すればいいのに。 「次はありますか?」 「そうですね・・・、あらかた読ませたいものは読ませてしまいました」 「あ、そうなんですか」 弁慶は少し考える素振りを見せてから本をしまいに部屋の中へと引っ込んだ。自分は戸口に立ったまま、次の言葉を待つ。手伝ってやりたいが、どうしても踏み入る気にはなれない。申し訳無い。弁慶の背中を見ながら掃除しろよ、と思った。 「内容は覚えていますか?」 「そうですね・・・、頭に残っている、という程度です」 「上出来です」 「え、これで上出来ですか?」 「はい、十分です。本ではわからないことはたくさんありますし、第一覚えることが多すぎますからね。それにさんは、実際に現場にでてからのほうが覚えが早いでしょう」 「・・・わかりますか?」 「えぇ、君をみていれば」 なんとなく罰が悪くて顔を歪めれば、肩越しに綺麗な笑顔でそう返された。ちくしょうお前無駄に好みなんだよ。顔が。 「他に細々としたことはありますが、帰って来てからにしましょうか」 「帰って来てから?」 「近々、戦がおこります」 その言葉にぴくり、と反応した。それに気付かないわけではないのに、弁慶は気にした風も無く本を選びながら言葉を続ける。 「九郎は君たちを屋敷に置いていきたいようですが、さんは付いて行くと言い張っているので、」 「あいつが?」 「おや?知りませんでしたか?」 純粋に驚き、不思議だという気持ちが伝わってきた。むしろなんでいつも一緒にいるからといって何から何まで把握していると思われているのか、それが不思議でならない。拗ねたように視線を逸らしながら肩を竦めた。 「あいつの全部を知ってるわけじゃありません。まぁ、付いて行くと言い張るとは思ってましたけど。あいつ、九郎さんに頼んだんですか?」 「そうですね・・・、形式上頼んではいましたが、有無を言わせない雰囲気でした」 あぁ・・・あの子ならやりそうなことだ。通りでこの間の手合わせのとき、ああいう言葉がでてくるわけだ。既に九郎さんに直談判済みだったとは恐れ入る。ぐらり、と眩暈がした。 「九郎さん・・・折れたんですか」 「折れたというか、勢いに負けたというか、まぁそんな感じでした」 「はは・・・なんかもう、すみません」 「君が謝ることではないでしょう」 確かにそうではあるのだが、謝られずにはいられない。なんていったって自分も連れて行かれるのだろうから。剣を習っているとしてもまだまだ実践で使えるほどではないと思うし、明らかに足手まといになる。ゲームだから安全は保障されて、 「さん?」 「え?あ、なんですか?」 「いや・・・、顔色が悪く目が虚ろだったので・・・。・・・どこか体調でも悪いんですか?」 いつの間にか目の前に立っていた弁慶に驚きながらも咄嗟に言葉を返せば心配そうに顔を覗きこまれた。そのままごつん、と額と額をあわせて頭を軽く振り、前髪を除けてから再度きっちりと額をあわせる。じんわりと伝わってくる熱や目の前の眉目秀麗な顔に思考が停止した。何してるんですか貴方は。 「・・・熱はなさそうですね」 「はぁ・・・」 「あぁ、これは失礼をしました。いま、両手が塞がっているので」 ただただ驚いて気のない返事をすれば苦笑して、軽く両手を持ち上げる。弁慶の顔から視線を下に下ろせば、両手に支えられた本が何冊かあった。先ほどは読ませるものはない、といっていたのにどういうことだろうか。本の存在を確認してからもう一度弁慶を見上げればにこり、と微笑まれる。いや、笑顔が欲しいわけじゃなく理由を聞きたいんだが。 「薬関係ではありませんが、簡単な兵法などの本です」 「兵法・・・」 「少し前になりますが、こういう類の本を興味深げに見つめていたでしょう?」 「あぁ・・・よく気付きましたね」 「えぇ、思わず妬いてしまうくらい熱烈な視線でしたから」 ひくり、と頬が引きつった。これは弁慶にとって息をするのと同じようなことでもごめん、無理だ。 「できるだけ簡単なものを選びましたが、それでも難しいとは思います。読まれますか?」 「あー・・・、はい、読ませてください」 若干視線を泳がせながら逡巡し、是と答えた。やはり難しいとはいえ興味はあったし、兵法ならばこれから先、役立つこともあるだろう。まぁどうせ望美たちについていくだけだから詳しく知る必要もないのだが、三十六計ぐらいは知っておきたいかもしれない。 そんなことを考えながら弁慶から本を受け取り、ずしりと重いそれを器用に支えなおす。 「ありがとうございました」 「いえ、少し重いので気をつけてくださいね」 「大丈夫です」 「あと、体が不調を訴えたらすぐに来てください。必ずですよ?」 「大丈夫ですよ。ありがとうございます」 弁慶の念押しに笑って礼をいい、失礼します、と頭を下げてこれ以上何も言わせないように早々と立ち去った。弁慶が心配するほど自分は無理はしない。無理することなど当の昔に忘れてしまった。いまはどれだけ手を抜けるか、に知恵を回しているほどである。まぁ、には大抵、そんなことを考えている割に面倒なことをするね、といわれてしまうのだけど。 暖かい陽射しが届く縁側を、ゆっくり歩く。今日はとても天気が良い。散歩日和でお昼寝日和だ。今日は縁側にでて読書に励もうかなぁ。も引き続き本を読んでいるし、一緒にごろごろしながら読んでもいいかもしれない。その場合は譲にでもお茶菓子を都合してもらおう。確か今日は望美の希望ではちみつプリンを作るっていってたはずだ。本当、望美のためとはいえ譲の料理の腕前には驚くばかりだ。 「・・・はぁーぁ」 のんびりと、この後の予定を呑気に考えるがどうしても気が盛り上がらなかった。それはきっと、先ほど聞いた情報と今朝の夢見の悪さが関係しているだろう。 戦が、ついに戦が始まる。これはゲームであるから死ぬ可能性はないだろうし、も楽観視している。別に不安がることはない。不安がることは、ないのだ。 「・・・身の安全は保障されている、よな・・・?」 頭の奥で一瞬だけ引っかかった違和感の正体は掴めないまま、あの覚えていないはずの夢を思い出した気がした。 『大丈夫だよ。どうせ、ゲームなんだから』 << >> (2009/03/05/) |