「…来ないな」 そう呟いた言葉は空気に溶けて霧散した。 △▽△ ぼんやりと縁側に座って空を眺める。漂う雲はゆるゆると形を変えて風に流されていく。そんな光景をどのぐらいの間みていたのだろう。どのぐらいの間その光景の下にいたのだろう。先ほど真上にいるなぁと思った太陽はすでに四十五度ほどずれていた。朝から鎮座しているからいろんな人に声をかけられたと思うけどあんまり覚えていない。ただ適当なことを話して同じようなことを告げていた気がする。脇に積まれた本の山を見ながら読書中だからいいや、という感じのことを。 目を覚ました日から数日がたっていた。 弁慶からはもう動き回っても良いという診断がなされているため、臥せっていた間の時間を取り戻すかのように読書に励んでいた。夜な夜な弁慶のもとで習っていた勉学に関するものから趣味として読んだりする類のもの、引いては興味のある小難しい兵法ほものまでずっと読みふけっている。たまに朔がやってきてご飯がどうのこうのいっていたけど片手を振ってそのうち食べる、なんて適当なことを言って追い返していた。そうしたら九郎が叱りに来て、景時が心配そうな顔でやってきて、弁慶が威圧感という言葉が逃げ出しそうな笑顔でやはり叱りに来て、それでも動かなかったら白龍が涙目で訴えてきたのだ。ご飯食べよう、と。さすがに神様とはいえ姿形は子供なため、泣かせてしまったことに酷く罪悪感を感じて折れたのだ。それからは必ずといっていいほど白龍がご飯だよ、と呼びにくる。ちくしょう弱みを握られた。食欲ないのになぁ、なんて思いながら毎回喉を通ろうとしないご飯を無理やり飲み込んでいた。譲の作るご飯はすごく美味しい。だから残したくないし残すという選択肢が除去されている家庭で育ったもんだから絶対に残しはしなかった。おかげで食後は吐き気に悩まされるのだが、何とか耐えてはいる。それでも無理なときはこっそり厠で戻しているのは秘密だ。そのたびに戻すくらいなら食べない方がいいと思うがそうもいっていられないし、きちんとご飯を食べるにはまだしばらくは無理そうだなぁとぼんやりと考えるのだった。 初陣の日から数日。目を覚ましてから数日。まだには会いにいっていない。 △▽△ 「さんは気にならないの?」 ご飯を運んできてくれた望美が真面目な顔をしてそう聞いてきた。流動食とはいえ美味しい譲のご飯を口に運んでいる最中だったから箸をくわえたまま静止して目を丸くする。一体なんのこっちゃ。そう思うがすぐに察しがついて箸を引き抜いた。そのままよく噛んでから飲み込む。口の中に入れたまま話すのはマナー違反だ。望美は辛抱強く待っていた。 「のこと?」 「そう、さんのこと」 望美はもう一度、気にならないの?と繰り返す。それに眉をぎゅっと寄せて思案顔で唸った。そうはいわれもなぁ。焦れたように望美が口を開く。 「いつもあれだけ一緒にいて仲が良いのにさんのお見舞いには一度も来ない」 「私も行ってないけど」 「それはは動けないから仕方のないことじゃないですか」 「もあんまり動いちゃだめなんでしょ?」 「お見舞いにくることはできる程度に回復しているし弁慶さんの許可も下りてます。普通なら真っ先にお見舞いにくるんじゃないんですか?さんの性格を考えると」 真剣に真っ向から貫いてくる望美の眼差しからさりげなく目を逸らした。そんなことは気づいている。あいつの性格を考えればすぐに答えが出る。いつもならば呼びもしないのに目を覚ましたと同時にやってくるだろう。傍に来てくれるだろう。笑ってくれるだろう。だが、それが、ない。 私が目を覚ましたときに真っ先に思ったことは何故傍にいないのか、だった。でもまだ目を覚ましていないのだろうってすぐに思い直して、怪我のおかげで動けず会いにもいけないしそのうち来るだろうと思って放置していた。しかし待てど待てどやってくるのは以外の人たち。さすがの私も怪訝に思う。でも、来ないということはそれなりの理由があって来ないのだ。あの無駄に軽いフットワークが売りのが動かないとはそういうことだ。望美と違って友達暦は腐れ縁と呼べるほど長い。だから、知っている。 「確かにそうだけど、来ないのはそれなりの理由があって来ないんでしょ。なら、別に会いにいこうとは思わないよ」 知っている。意味もなくそんな態度を取ることはない、という人間を知っている。 「だから、気にはなるけど放置しておくのがベストなんだよ」 にこり、と笑ってそう答えれば望美は一拍置いてそうですか、と呟いた。 △▽△ かちゃかちゃ、と歩きにあわせて食器が音を鳴らす。最初は元気も食欲もなかったさんだがいまではちゃんと綺麗にご飯を食べてくれるようになった。血の気がなくて白かった顔も赤みを取り戻してきているし、動いてもいいと許可が出る日は近いだろう。もちろん、この流動食から脱する日も近いはずだ。さんは流動食が苦手であるようだから満面の笑みで喜ぶことだろう。たやすく想像できる姿に思わず笑みが零れた。 「先輩」 「あ、譲くん」 呼びかけられて顔を上げれば譲くんが台所の出入り口から顔を出していた。どうやら足音や食器の音で気づいたらしい。前々から思っていたが、良く気がつけるものだ。 「さんのご飯、終わりましたか」 「うん、さくっと綺麗に食べてくれるようになったよ。美味しそうだった」 「それはよかった」 譲くんお手製のエプロンで手を拭いて嬉しそうな笑顔でお盆を取られる。あ、と声を漏らせば丁度食器を洗っていたんです一緒に洗ってしまいますね、といって台所へとまた戻っていった。さりげなく奪われたことに呆気に取られてしまうが、すぐさま後ろを追いかけてありがとう!とすでに洗い始めていた譲くんの背中へと言葉をぶつけた。肩越しににこり、と微笑まれて本当にいい子に育ったなぁ、となんだか感慨深く思う。兄とは比べ物にならないなぁ。とか思ってたりして。何気に自慢の幼馴染だったりする。もちろん、兄の方も。 「譲くん、手伝うよ」 「いえ、大丈夫です。すぐに終わりますから」 「えぇー・・・昔みたいにお茶碗とか割らないよ?」 「そういうことを言ってるわけではありませんよ。本当にすぐに終わります」 隣から顔を覗き込むようにしてそういえば、譲くんが苦笑する。確かに流しの中にある食器は少ない。だから譲くんの言っていることも嘘ではないのだろう。それでもどこか納得のいかない顔をしていれば、それなら今日のさんの様子を教えてください、といわれた。一瞬だけ目を丸くしてぴん、とくる。なるほど。 「さんに興味があるの?」 「ありませんよ」 ずっぱりさっぱり即答した。しかも朗らかな笑顔で。 「今日、何気にさんの苦手なものを食事に紛れ込ませてみたんです。ほら、いつも顔をしかめて食べていたでしょう?」 「あぁ、春菊?」 「はい」 「うわ、気がつかなかった」 「気がつかれてはあまり意味がありませんよ」 「そっか、譲くんすごいね。さん、美味しいっていって笑顔で食べてたよ」 にこり、と笑ってそういえば譲くんはまた、それはよかったといって笑みを浮かべた。あぁすっかりおさんどんとなってしまって・・・。譲くんの彼女になる子は苦労しそうだなぁ。でもある意味勝ち組なのだろうか。女の子のほうが。そんなことを考えながら流しの桟に腰を預けた。隣にいる譲くんとは逆方向を向くことになる。そのまま互いに無言のまま、二人っきりの台所に食器を洗う音が響いていた。 「・・・先輩」 「うん、今日、さんに聞いてきた」 ゆっくりと目を閉じて思い出す。ついさっきまで聞いていた話の内容。さんの顔。表情から読み取れる、感情。 「さん、知らないみたい」 「・・・そう、ですか」 「うん、さんがね、人を殺めてしまったこと、想像すらもしてなかった、みたい」 響いていた音が次第に聞こえなくなる。なんとも言えない沈黙が台所を支配し互いに口を開こうとはしなかった。 さんにあまりにも単刀直入で聞くには憚られたから遠まわしに、遠まわしに探りを入れた。何故見舞いにこないのか不思議に思わないのか。それから始まり更に突っ込んで話を聞こうと思っていた。でも、実際はそれを聞いただけでわかってしまったのだ。あの表情。あの目、その奥の感情。微塵にも思っていなかったのだ。人を殺してしまった事実に苦しんでいるなんて、考え付くことさえないと、可能性すら思いついていないと、そう思っているように見えた。それとも人を殺めてしまったことはそう重大な問題ではないといわんばかりの態度だった。 「・・・本当に、そうなんでしょうか」 「・・・たぶん、さんは、人を手にかけるっていことの重大さを認識していないのかも、しれないね」 そう、そうだ。そのほうがかっちりと型にはまる。知らないというよりも、まるでその行為自体を疑問にすら思っていない、むしろ人を手にかけておいて殺していないと思っているような、そんな違和感。前々からあったさんの妙な確信と思考。何故死なないと言い切れるのか。何故あのような戦場で躊躇いもなく人に刃を向けることができるのか。何故、死と隣り合わせのが常となる殺伐として世界で安穏としていられるのか。同じ世界から流れてきたらしいというのに、何故こうも喰い違う。不思議でならない。 「・・・でも、そうだね、その方が幸せなのかもしれない」 「先輩」 「だって、そうじゃない?」 にこり、と笑って見上げると譲くんは戸惑いがちに苦笑した。私の言いたいことがわかるのだろう。そう、人殺しだと本人が自覚しなければ本人はその事実を知らないまま過ごせる。幸いにもこの世界は戦争中で、軍に所属している限り罪にはならない。そして、世界が違う。だから、そう、その方がもしかしたら幸せなのかもしれない。 「確かに悪いことだけど、そうしないと生きていけないし、それに、まだ、・・・殺していないしね」 譲くんもさんもまだ知らない。殺していない。怨霊という、人間の成れ果てしか手にかけてない。突き詰めてしまえばそれも人間なのだけど、これを譲くんに告げる気はなかった。真実に対して沈黙を守ることで護っていた。大事な、幼馴染だから。だから、こんな思いをするのは私だけでいいと思っていた。 「でも、問題は・・・」 「さん、ですね」 「うん・・・」 さん。さんとは違って、己の手が血に染まった事実を嘆いている人。怨霊さえ手にかけることを躊躇った人。あの時は九郎さんが現実に引き止めた。壊れかけていた心を繋いだ。繋いだけど、大きな傷は残ったまま。 「譲くん、さん・・・みたよね」 「えぇ、白龍とよく、呼びにいきますから」 「じゃあ脇に置いてある本の山、」 「・・・以前に比べて読む速さが格段に落ちてます。読んでいる時以外はずっと空を、眺めています」 「そしてご飯も、たまに戻してる」 「・・・知っています」 泣きそうになるのを堪えるかのように目頭に力を込めた。ぎゅっとしわが寄る。思い出すのはあの日、見た光景。あの涙。胸が締め付けられる。あぁ、どうか、どうか、 「・・・言葉が、何もでないね」 「俺も、同じです」 運命すらも変えてみせると、変えてやると誓ったけど、いまもなお、無力な自分がただただ泣きそうなほどに悔しかった。 << (2009/09/20/) |