朝の空気は澄んでいて気持ちが良い。息を大きく吸い込めばまだ冷たい空気が肺を刺激する。それをゆっくり吐き出してまた吸い込み、大きく深呼吸した。昔ならこのまま走りに出かけたもんだけどなぁ、と浮かび上がった懐かしい記憶に、人知れず笑みを浮かべる。太陽が完全に上りきってしまう前のこの空気を堪能しておこうと、もう一度息を大きく吸い込んだ。 大陸の南に位置するハルナの町の気候は温暖で、割といつも暖かい。はっきりとした四季を感じられる地域で育った自分には、冷えることがないということはなんだか不思議なことだった。まるで沖縄のようだな、とぼんやりと考えたのはいつだったか。あまり記憶にない。 シメオンの世話になって早二年。あの、夢の中で語らった日から過ぎた時間は長く、心が癒えるには十分な長さだった。そしてスパルタなシメオンを師匠に据え、魔法を鍛え上げるにも十分な時間だった。ぼんやりとシメオンの世話になった二年間を振りかえる。次々と浮かび上がる涙無くては語れない思い出にぶるり、と体が震えた。…これ以上はやめておこう、これ以上は脳が思い出すことを拒否している。寒気のする体を温めるように擦り合わせ、落ち着こうと青ざめた顔で深呼吸を繰り返した。 「早いものだな」 ついでとばかりに修行の一つである精神統一をしていたら、欠伸とともにそんな声が聞こえた。振り返れば戸口に寝間着姿のシメオンが寄りかかっている。非常に眠そうだ。朝が弱いだなんて、自分が知っている魔法使いとは真逆だなぁ、といつものことながら思った。 「いつもこんなもんですよ、シメオンさん」 「おや、そうだったかのぅ」 「そうですよ。シメオンさんは今日は早いですね。申し訳ないですがこれから朝食の支度なのでしばらく待ってもらうことになりますけど、大丈夫ですか?」 「構わんよ。気まぐれに早起きしたにすぎぬし、朝食の時間にはまだ早かろうて」 くぁ、と大きな欠伸をしつつ、そう言い置いて家の中へと引っ込んでいった。その後ろ姿にできるだけ早く準備しますから、といえばシメオンは手をひらひらと振って答えてくれた。いつも通りで構わんよ、というところだろうか。しかし不思議なものだ。放っておくと昼まで起きてこないシメオンがこんな朝早くに起きるとは。 「さすがのシメオンさんも思うところがあるのかねぇ」 なんて考えてしまうあたり感傷的になっているらしい。なんだかんだと二年も共に過ごしているのだ、そりゃそうか。ぐしゃり、と頭を掴むようにかき混ぜて、息をついた。 いつの間にか明るい空は青と白でまぶしい快晴。気温も適温。 旅立つには幸先が良い日だ。 □◇□ 「」 呼ばれて振り向く。この名前にも慣れたものだ。来たるべき日まで偽名を名乗ると決めたはいいが、やはり最初はなかなか慣れず反応できずにいて、シメオンにはよく冷めた目で見られていた。この目がトラウマになりかけるほどの絶対零度の目だったため何度本名を名乗ろうと思ったことか。そういうシメオンだからこそ未だに偽名を名乗り続けられているわけだが、代償も大きかったように思う。主に精神面の。 何かと察してくれるシメオンが拾ってくれて助かったと思う部分でもあるのではあるが。 「…?」 「あぁ、すみません、シメオンさん。少しぼんやりしてました」 「そうか、呆けるには早いぞ」 「早々呆けたりしませんよ」 「そうかのぅ、案外その日は近いやもしれぬぞ」 感傷的になってるとかそんなことなかった。この男。通常運転じゃねぇか。 「…で、なんでしょうか」 「あぁ、そうじゃった。ほれ、これをやろう」 ずずず、と音を立てながら味噌汁を飲むシメオンに平常心を心掛けて問いかけると、懐から何かを取り出し、机の上に何かを転がした。出しっぱなしになっていた水を止めてエプロンで軽く手を拭きながら、定位置となっている真正面の席に座り、転がされたものを見る。 「なんですか、これ」 「みてわからぬほどお前はものを知らぬのか」 わざわざため息までついてこの野郎。 「腕輪、ですね」 「そう、腕輪じゃ」 「…魔力こもってますね、シメオンさんの」 しばらく眺めてそういえば、満足そうにシメオンが笑って、「この二年は無駄ではなかったのぅ」なんていうものだから「当たり前です」と返しておいた。もしあの鬼教育で何も身についていなかったら自分はここにはいない。シメオンは容赦なく追い出すだろう。そういう人だ。 「その指輪と同じような効果を持っている。この二年で飛躍的に魔法が巧みになったとはいえ、まだまだ不安が残るからの。かわいい弟子に餞別じゃ」 珍しく柔らかく笑うシメオンと腕輪を交互に見る。まさか、予想だにしていなかった。やばい、嬉しい。嬉しすぎて顔面崩壊しそうだ。もしそうなったらシメオンに弄りに弄られるというのは目に見えているため、にやけそうになる顔を全力で阻止し、ゆっくりとした動作で手に取った。 銀のつるりとした表面がひんやりとして気持ちがいい。埋め込まれている宝石は青色で、シメオンの得意な水の魔力が感じられる。ほぼ全系統の幅広い魔法を高いレベルで扱うことができるシメオンが選んだ水の魔法は、きっと己自身が得意だから、ということだけではないだろう。 自分が扱いに長ける魔法も、水の魔法だった。 「…ありがとうございます」 思いのほか自分はシメオンに可愛がられているのだなぁ、と、感動よりも暖かい、胸の奥から湧き上がる思いをなんとか押し込んで、そう口にした。シメオンは満足そうに朝食を食べている。腕輪を手首に通して、涙が零れないように一生懸命我慢した。 あぁ、今日という日を一生忘れない。 |