いつの間にか寝入っていたのか、ゆるゆると目を開くと闇と光しか存在しない、あの不思議な空間に居た。ということは夢の中なのか。ぐるりと周りを見回して、足元の水を蹴る。下から淡く照らす光に、水の上に立つという摩訶不思議な現象。うん、間違いない。あの泉だ。 ここに来た、ということはテンに呼ばれたということだろうが、しかし、これは些か困った。話を聞いていくにつれ無表情になっていく自分に気づき、シメオンが早々に休め、と気を使い、シメオンの世界情勢講座は早い時間でお開きとなったのだ。確かに自分で感じるよりは精神的ショックも大きいだろうと思ったし、なにより気を使わせてしまった手前、休んでおきたかったのだが、 「これはこれで都合が良い、かな」 『何の都合?』 「自分の都合」 水の、泉の下の方から響いた声に驚きもせずそう返した。 「姿を現しなさいよ」 『それはちょっと無理かな。申し訳ないけど、下まで降りてきて』 言い終わるや否や、人の意思など知らぬとばかりに泉の中に体が沈んだ。一瞬で体が引き込まれたために声すらあげることもできずに、ただひたすらに泉を落下していく。呼吸はできるし害はない、ということは知っているが、人間は視覚から入る情報に頼り切っているためどうしても水の中という認識が拭えない。水圧もないし、実際に呼吸をしてみれば数秒の違和感のあと、普段の呼吸と変わらなくなる。この泉の水は空気と同等、と思えばいいのだろうが、やはり慣れるまでに時間がかかるだろう。 『そんな驚かなくてもいいのに』 水の上に着地(相変わらず変な言葉だと思う)すれば、目の前のテンは何もない空間(いや、この場合は水だろうか)の上に腰かけて苦く笑っていた。新たな不思議現象に目を丸くするが、とりあえず呼吸を整えて深呼吸する。よし、慣れたぞ。 「いっておくけど、まだ数回だよ、ここに来たのは」 『そうだったかな』 「そうだよ。いつも会うときは、…なんていうか、夢現な状態でだろ」 言葉にしておいて、なんだか違うな、と首を傾げた。 テンと会うときは寝ている時だ。だから、夢の中で、だと思う。しかし、その割には意識ははっきりとしていたから夢現という言葉は間違っている、とも思う。ただ、テンの気配をそばに感じるけど姿は見えず、自分の意識もはっきりしていて話せるが、自分の姿はなく何も見えず、というとても曖昧な認識の、さらに外側のような意識のことでの逢瀬なのだ。言葉にしろというほうが無理なのかもしれない。 『あぁ…そういえば、そうだね。僕はずっとここにいたから、忘れてた』 「そうなの?」 『うん。僕は基本的にここから動かないよ。君のいう夢で会うときは、僕も夢を通じて会いに行ってたからね』 「…どういうこと?」 『つまり、君の夢に僕がお邪魔してたってことだよ」 にこり、と笑うテンにまたもや首を傾げた。わかったような、わからないような。 「ま、いいや」 『いいのか』 いいんだよ。 「それより、本題なんだけど」 けらけら可笑しそうに笑うテンに渋い顔をしつつ、声をかける。いままでの経験から、そう長居はできないはずだ。テンも頻繁に会うことはできない、と前にいっていたし、実際にその通りであるし、さっさと済ませてしまおう。 「テンに聞きたいことがある」 『どうぞ?僕の姫君』 「それ次いったら殴る」 『それは怖いね、やめておこうか』 「そのほうが賢明だね。…シメオンがいってたことは本当?」 『そうだね、本当だよ。ここは大体150年…かなぁ…まぁそのぐらいの昔の世界になる』 「適当だな、おい」 『数十年の差異なんて小さな問題さ』 「自分には大きな問題だっての」 『それは失礼』 芝居がかかった仕草と言葉に殴ってやろうかと思った。 「全く…、まぁ、とにかくそんぐらい昔なのはわかった。ここはクールークとかいう国の辺境の町だっていうけど、あの塔からはどのぐらい離れてるの?」 『魔術師の塔は、』 「あ、そんな名前なの?」 『うん、知らなかったの?覚えておいたほうがいいと思うよ』 「そうする。はい、続き」 『魔術師の塔は赤月帝国の北の方、になるのかな…。ま、とりあえず魔術師の塔からうんと南に位置してるよ。クールーク自体が赤月帝国からみて南の国になるからね』 「また適当だな、おい」 『小さな問題さ』 「聞き飽きたわ」 『早くない?』 「そんなものよ」 こてん、と首を傾げるテンが無駄に可愛らしく、眉を寄せた。なんだろうか、この違和感は。しかも次第に強くなっていく、この感覚。 少し考えて、ふるり、と頭を振る。いまはそれどころじゃない、集中しなければ。 「…日本で考えたらオーストラリアとかそのへんみたいなもんかな」 『君、勉強してたんじゃないの?』 「位置関係までは把握してないよ」 『そうなんだ』 「そう。ねぇ、…自分、戻れる?」 『無理だと思う』 少し躊躇って投げかけた大本命の問いかけは、さらり、と一言。たった一言で否定された。それなりにテンポよく進めた会話は様々な想いを込めたこの一言を聞くための心の準備だったが、いやはや、こうもいともたやすく否定されるとは。 ぼろり、と涙がこぼれた。 『…ごめんね、、僕にもう少し甲斐性があれば良かったのだけど、見つかるわけにはいかなかったんだ』 「見つかる…何に」 『あの、船の持ち主に。この世界の外側の存在に、この世界に害を成す存在に、僕は見つかるわけにはいなかったんだ』 ぼろぼろと涙を流して水滴を浮遊させる自分に、テンは申し訳なさそうに顔を歪めている。何のことだろう。そういえば逃げ延びれなかったと、最初から言っていた。 逃げる?何から? 見つからるわけにはいかない?何から? そういえば、自分はテンのことを何も知らない。 『僕はこの世界がすきだ。だから、この世界に良くないものに見つかるわけにはいかないんだ』 君を巻き込んでしまったことは本当に申し訳ないと思うけれど、と。テンははっきりと、自分の目を見てそういった。青みがかかったきれいな銀の瞳には濁りもなにもなく、ただひたすらにきれいなまま。自分を貫いている。 テンはまっすぐだ。まっすぐに、人を貫く。意思を伝える。嘘偽りなどない。目を見ればわかる。それがテンの誠意なのだろう。人の意思などお構いなしに、強制的に巻き込んでしまう事への、せめてもの誠意。 だから自分は、何も知らないというのに、自分は。 「…うん、わかった。テンの気持ちは、わかった」 『…ごめん、』 「謝らないで。謝るくらいなら、礼を言え」 テンを信じて、応えたことに。 『君、という、人は、…』 「なに?」 涙が水滴となって浮遊した後、水に溶けてなくなっていくという光景にいまさら気づいて不思議そうに眺めていると、テンは心底驚きましたといわんばかりに目を見開き、口を閉じたり開けたりしていた。そんなにおかしなことを言っただろうか。謝られるよりは礼を言われた方が気持ちがいいと思うのだけど。 流れ出る涙を乱暴に拭う。涙は一向に止まる気配はなく、予測がついていたとはいえ心についた傷は思った以上に大きいらしい。どうしたものか。 『いや、なんでもない。…ありがとう、』 テンは破顔してそういった。あまりにも人間のような、そんな表情をするものだから今度はこちらが目を丸くして驚いてしまった。紋章、という存在であるのに、本来は意思など持たない、ましてや姿など持たない存在であるというのに。 どこまで人間に近くなっていくのだろうか。 「…どういたしまして」 気づいた。そうか、これだ。これだったのだ。違和感の正体は、正体不明の気持ち悪さは、これだったのだ。 テンは紋章だというのに、先ほどからとても人間臭い仕草と表情をする。最初は堅い、まるで下手な芝居のように堅かったそれが、いまでは本物の人間であるかのように錯覚するまでに近づいてしまった。この短時間で、すさまじい速さで人間に近くなっていく。 ぞわり、と背筋が粟立った。 『…どうか、した?』 「いや…なんでも、ない」 誤魔化すかのように目元を強く擦った。受け入れがたい事実と、気づいてしまった変化と。なにも一度に襲い掛かってくることもないだろうに。どうしろというのだ、どうしろと。 「…あのさ、一つ提案なんだけど」 考えたって仕方がない。だから、いまできることをしよう。 『なに?』 「自分、テンのこと何も知らないし相互理解のために話し合おう』 『あぁ、そうだね。僕たちにはまず、それが必要だね』 |