あの月夜に決めたはずなのにいまだに立ち止まっている自分は滑稽なのかもしれない。


□◇□


 月に追われて帰ってから八日たった。あのときに宙ぶらりんな状態から抜け出した からといってなにか変わるということもなく、ただ普通に、いつも通りに学校へいって 道場へ行って、何気ない日常を過ごしている。変わったといえば師範が穏やかな 満足そうな瞳で自分をみるようになったとか、そんな些細なことだ。

「あんた、やっと笑うようになったねー」
「それ何回も聞いたんだけど」
「そうだっけ?」
「うん。ていうか自分、そんなに笑ってなかったわけ?」
「いや、笑ってたこさ笑ってたけどね、その顔がどうも陰気っていうか鬱っていうか イラっとくるっいうか」
「ひっどいいわれよう」

 腕を組んでうんうん頷きながらいう友達を笑い飛ばして、残り一個だったチョコレート を口に中に放り込んだ。それに涙目になって騒ぐ友達を軽く流しながらここのいつもと 変わらない日常の中にいることに、いつもの違和感を感じていた。
 昔からそうだった。友達と馬鹿やっているときも。勉強しているときも。 部活動に励んでいるときも。なにをしているときでも。なにか違和感を感じていた。別に変わったことはなにもない。小さな頃から同じなようで同じではない日常を 送っているだけだ。波乱万丈といえることなんてなにもない。変化といっても、 言葉の発達、体の成長、親が老いる、自分が成長する、学校が変わる、友達が変わる、 勉強が難しくなる、環境が変わる、親元から離れる。そんな誰とも些細な違いもない、 個人差はあれども普通なら誰でも経験するようなことばかりだ。これといって変わった ことはなんにもなかった。だけどいつからか感じていた、当然のように受け入れていた。
 ここは、自分の居場所ではないと。

ー?」
「、ん、なにさ?」
「え、別に、いきなり目がうつろになられると怖いんだけど」
「あ、ああ、ごめん、眠くなっただけ」
「・・・ほんとに?」
「ほんとだって。次寝てるから終わったら起こしてよ」

 そう問答無用でいいきって机に突っ伏した。呆れたようなため息が聞こえたけど 仕方ない。深く突っ込んではほしくなかったから放っといてくれる友達がありがたかった。 始業のチャイムはまだ鳴らない。
 自分は、酷い奴なのではないかと、思う。実際、親にも友達にも、環境にもたぶん 恵まれているのに、なのにこんなことを感じてしまうのは、確信してしまっているのは。
 ぎりっと歯がいやな音をたてた。頭をおいている腕が少し冷たく感じるのは気のせい だろう。きっと、気のせいなんだ。
 始業のチャイムが鳴って、頭に優しくおかれた手に目頭が更に熱くなった。


□◇□


「・・・またあんたか」
『うん、元気にしてた?』

 にこり、と笑いながらいう光に目を半眼にしてみやる。誰のおかげでこんなにも 悩んでいるのかわかっているんだろうか。いや、こいつならわかっているんだろう。 自分が原因だってことも自分がなにに悩んでいるかってこも全てわかっておきながら 笑うんだろう。そんな気がする。

『君、僕がいいたかったこと、わかった?』
「とっくに」

 額に手をあてて深く息を吐き出しながらいえば、光はそうかと満足気に言葉を返した。そんなもの、とっくにわかっていたし、理解していた。その言葉がさす意味も、 全て悟った。だから自分は動けない。立ち止まったまま選んではいない。選べていない。

『君の自由にしてあげたかったけど、そろそろ潮時なんだ。選んで』

 その言葉に面白いくらい肩が跳ね上がった。視線は下がり、無意識に半歩下がって 身構え、いつでも逃げられるような体勢へと入った。それに光がひどく人間臭くため息を ついて頭をかいた。

『君ね、、いい加減腹を括ってよ』
「・・・わかってるよ」
『へぇそう?本当にそうだったら文句はないけど?』

 言葉がつまり、きつく眉が寄る。わかってはいるが括れない、括りたいけど 納得できない、そんな曖昧で複雑な心境を見透かされて悔しかった。まだ心地の良い ぬるま湯から抜け出せない自分を責められているようで、息苦しくて仕方ない。選ばなきゃいけないのはわかっている。理解もしている。あの言葉の意味も。
 あちらとこちらとはあっちの世界とこっちの世界。
 選べというのは自分の居場所かこれまでの人生か。
 なんて重い、重い選択肢。なにか違うと思う居場所から抜け出すためには全てを捨てろと いうのだ。ただ自分が違和感を感じるというだけで、全てを、これまで歩んできた人生を 捨てろと。

「・・・なんで、自分だったのさ」
『え?あぁ、偶然だよ』

 沈黙に耐えられなくなり、ふと零した疑問に律儀に光はなんでもないことの ように答えた。その言葉がさす意味に誰でもよかったと含まれているようで、こんなにも 重い選択肢を強いられ苦悩しているというのに、誰でもよかったなどと。瞬間的に怒りがこみ上げて光を殴った。

「じゃぁなんで自分なんだよ!なんで自分が、俺が!!」
『偶然でも必然だったんだよ』

 激昂した声に静かな声が重なった。だけどその静かな声は驚くほど通る声だった。 光は殴られ、横をむいたままの顔をゆっくりと正面 へと戻す。そして静かな声はまだ続く。

『君が現れたのは偶然だった。でも、君がいなければ僕は逃げ延びれなかった』

 そう、あの時、突然現れた気配に、僕を受け入れられるかもしれない器の出現を 悟ったとき、例え力の歪みで偶然引き込んでしまったとしても、僕は必然だと。
 運命だと。

『偶然でも、君じゃないといけなかった』

 その言葉が肩にのしかかるようだった。そのくらい想いが込められた言葉だと 気づいた。ぼろぼろと零れる涙を拭いはせずに、俯き加減だった視線をあげる。息が少し荒くて 嗚咽が苦しい。
 光が困ったかのように笑った気がした。


□◇□


ー?ってば!」
「・・・ん、」
「いくら起こしても起きないし、放っておいたらもう学校終わっ、た、」
「うん、そっか」
「いやいやいやいやそっかじゃなくて。あんた、ちょっと、」
「うん、なんでもない、なんでもないんだよ、うん、本当に、なんでもないんだ」

 伏せていた顔をあげればぼたぼたと涙を零している自分に心底驚いたようで、 目を見開いて混乱する友達にそれだけを伝えようと言葉を繰り返した。背もたれによりかかりながら窓から外をみれば空は紅く、もう夕暮れだと 告げている。相変わらず流れる涙を拭いもせずに祈るように優しい色を眺めた。
 どうか、いまだけでもいいから、自分を慰めて。



 どうか、許して。