ふと見上げた空はあの日、眺めた空と似ていた。太陽と空だけは変わらずにあり、 光と、闇と、暖かさと、安らぎと、天候と、・・・風とをもたらしている。 それだけがあそことの共通点。

ー、授業終わったよー?」
「ん、わかってるよ」

 あの世界から戻って、二ヶ月が過ぎた。


□◇□


 ただ呆然としてもなにも始まらない。とりあえずなぜ実家にいたはずなのに いつもの部屋に戻っているか、状況を把握しようと母に電話をかけた。

『はいもしもし、って?久しぶりじゃん、たまには帰ってきたらどうなんだよ全く、こんな親不孝な 子供に育てた覚えはないっつーの。・・・は?この間の長期休みに帰った? 寝言は布団の中で十分でだろうが。全く、この子はなに馬鹿なことを抜かしてんだか。 馬鹿なのは成績だけにしときな。・・・あん?大きなお世話だって?口答えたぁいい度胸 してんじゃんよチャン?・・・ん?よし、このお母様の偉大さがわかればいいんだよわかれば。 ・・・ああ?さっきもいったじゃねぇか。帰ってきてねぇよ。 おかげで父さんをなだめるの苦労したんだからなー。今度帰ってきたときうざいくらいに 泣きつかれるのを覚悟しとけよ。おっともうこんな時間か。これから父さんとデートだから切るな。 んじゃまたなー』

 一方的に切れた携帯を片手に、相変わらずな母だと、なんとも言えずに電源ボタンを 押した。だけど知りたいことはわかった。この長期休みに自分は帰っていない。確かに自分は 帰り、数日すごした記憶があるのに、だ。あっちへいったのもいつものように 走っていたときだというのに。この不一致はなんだろうか。こちらに強制送還されたときにでもずれたとでもいうのか。さっぱりわからない。
 眉を寄せて頭を乱暴にかきながら壁にかかっている時計をみた。時間は十時過ぎ。遅刻決定。

「・・・一応いくか」


□◇□


 学校はいっておかねばならないだろうと、あの日から普通に通い続けている。夢はみなくなった。あっちにいたからみていたからなのか、原因はわからないが あの世界との関わりを絶たれたような気がして、なんだか寂しく思えた。全てが長い夢だと思えることもできたが、あまりにも現実的すぎてで忘れられない。 それに忘れるというのなら、あっちで出会った人たち、確かに触れ合った命を否定すると いうことだ。繋いだ手の暖かさも、抱きしめて眠ったあの子供の感触も、全てを 覚えている自分にはどうしてもできない。ただ単に、自分が忘れたくないという気持ちもあるかもしれない。

「ねぇ、帰りにマック寄ってかない?」
「あー、ごめん無理だ」
「また?最近はじめたっていう古武術ってやつの稽古だっけ?」
「うん、そう」
「最近毎日じゃん、やるなとはいわないけど無理はしないでよ」
「わかってるって」
「・・・いまいちあんたのそれは信用できないんだよねぇ」

 重苦しくため息をつく友達をみて、申し訳ないような面持ちで苦笑した。 身を案じてくれている友達には悪いが、通い続けることをやめるつもりはない。
 この世界に戻ってきて、はじめたことがある。そのひとつが古武術だ。丁度近所に道場があったため、入門してみたのだ。その道場は古武術といっても あらゆる要素を取り入れた総合武術のようなもので実に実戦的だ。習っていて とても楽しいから苦になるということはない。しかし最近毎日のように 通っているために、師範に急いてはいけないとはいわれている。さっきは友達に 無理するなといわれる。自分はそんなに無理しているようにみえるのだろうか。 毎日通っているのは楽しいからであるし、無理しているつもりはない。みんな、心配しすぎなのだ。道場に向かう道すがら、つらつらと考えていた思考をそう結論付けた。 軽く俯いていた顔をあげればもう日が暮れ始めている。

「・・・あっちでみた夕焼けと変わらないなぁ」


□◇□


 たん、たたん、と小気味のいい音をたてながら互いに攻防を繰り返す。 相手の力を受け流しながら利用し、体を回転させて蹴りを繰り出すが防がれてしまった。 それに軽く舌打ちして間合いを取り、またむかっていこうとするが手のひらを向けられ 制止される。

「師範、なぜ止められるのですか」
「いや、今日はこれで終わり、だということだよ」
「まだいつもの終了時間には早いです」

 訝しげな表情でもしていたんだろう。そういえば師範は困ったかのような笑みを 浮かべた。

「前にいったことを覚えているかい?」
「・・・"急いてはいけない"。ですが、自分は急いているつもりは、」
「そう思っているのは、自分だけじゃないのかい?」

 今日、友達に似たようなことをいわれたのを思い出し思わず黙り込んでしまった。 それに師範は柔らかい笑みを浮かべて自分を眺めている。

「君は、何かに打ち込んであることを考えないようにしているようにみえる」
「そんなことは、ありません」
「君は結構鈍いから、無意識かもしれないね」
「鈍いことなどありません」

 即座に反論すればおかしそうに笑われ、眉を寄せればごめんごめん、と 頭を撫でられた。完璧に子供の扱いだが、師範に撫でられるのはきらいではなかった。

「当たり前のことだけど、全力疾走するとどうなる?」
「どうなる、といわれても・・・、息が切れ、最悪過呼吸になります」
「そうだね、そしてその間は思考が回らない」
「・・・」
「つまりはそういうことだよ」

 そういって師範はもう一度頭を撫で、今日はこれでおしまい、と締めくくった。 互いに一礼をして更衣室へと向かう。いつものように自分が最後だから誰もいなかった。
 "つまりはそういうこと"。師範の言葉を頭の中で反芻し、意味を考える。師範の言葉 にはいつも意味があった。あのように問い、考えるように仕向けるときの師範の言葉に 無駄なことはなかった。この一ヶ月強で何度か経験したからよくわかる。 導いてくれたのは師範だった。
 着替えをかばんに突っ込み、勢いよくブレザーに腕を通して更衣室をでる。 外へとでれば空には丸い満月があった。月明かりが目に優しくてなんだか涙がでそうだ。

「・・・本当、こういうのはあっちと変わらない」

 本当は考えなくてもわかっていた。気づいていたけど知らない振りをしていた。 考えたくなかったんだ。きっと、考え始めたら止まらない。いてもたってもいられない。
 逢いたくなる。話したくなる。一緒に過ごしたくなる。――戻りたくなる。

「・・・わかっています、師範」

 このままじゃいけないってことを。わかっていても、どうしようもしたくない ことだってある。そのために設けた執行猶予のような時間。もうそろそろ潮時なのかも しれない。
 肩に引っ掛けたかばんを握りなおし、アパートに向かって走り始める。いつまでも 立ち止まっているわけにはいかない。
 さぁ、目は覚めた。遅れたぶんの時間を取り戻しにいこうじゃないか。
 少し息があがってきた中、ふと遠くない昔に聞かされた言葉を思い出した。





『お前は選ばなきゃいけない』