足が冷たい。それを意識した途端、まどろみは一気に消えうせ覚醒した。ゆっくりと瞼を持ち上げれば、目の前に広がる暗闇と下から淡く光る泉がある。目に痛くはない白と黒のグラデーション。不思議な空間。不意に下をみれば足首まで水につかっている。その下からもぼやけるような光が 変わらずにあった。
 はて、人とは水の上に立っていることができただろうか。――――否、そんなことができたら飛行機など使わずに隣の国ぐらいは歩いていくだろう。実際にそう行動するかどうかは別として。それなのに自分は水の上に立っている。水という概念を全く無視している不思議な現象 だった。
 もしかしてこの場所だけかと思い、ためしに歩いてみても変わらず足首から下は 水に浸らない。子供のように蹴飛ばしてみても波紋と水音が響くだけだった。実に 普通の反応である。だけどこの場所は、摩訶不思議なこの空間は、全くといって 現実感がなかった。

「…ゆめ、かな」

 それが一番妥当な考えだろう。水の感触はやけにリアルだが本当に全くといって いいほど現実味というものが希薄だ。そして物理的にもありえない、と思う。これはゆめ、ゆめだな、と決め付け、どうせ目覚めるのなら慌てる必要もない、ということでこの神秘的にも思えるこの空間を楽しむことにした。ばしゃばしゃ、と足音の代わりに水音だけが響く。それ以外の音も自分以外の 気配も感じられず、風景も変わらない。最初こそは物珍しさからあたりを眺めて いたがあまりの変わりなさに飽きてしまった。
 足を止め、ぐるりとあたりを見回す。やはり変わらない風景があるばかり。 結構な距離を歩いたはずだが岸さえ見えない。疲れは感じていないが濡れることを厭わずにその場に腰を下ろした。後ろに手をついてもやっぱり手首から少し上辺りまでしか水に浸らない。今更だったが、本当に不思議な 場所だ。ここは。

「…ん、?」

 しばらく上をみたりぼんやりと前をみたりして、何気なく下に視線を落とすと何かが みえた。見えたというより、一瞬だけ強く光ったというべきか。この不変な空間に初めてあった現象。異変。興味を惹かれないわけがない。立つのが億劫に感じられたから四つん這いに進み、強く光ったと思われるところの 真上へときた。手がついているところを軽くさする。手に感じるのはまさしく水の感触だが、一定の高さから下へはいけない。水なのに、何度もいうが可笑しなことだ。
 それでもどうにかしてあの場所へはいけないだろうか、と考えをめぐらせた。どうしてもいきたい。いかねばならない。そんな気持ちがあった。

「……あー、」

 どんなに考えても何も思いつかず、しまいには面倒になって水についている両腕を 曲げ体重をかけるようにして押しつけた。すると水は待ってましたといわんばかりに柔らかくへこみ、勢いよく両腕が沈む。支えがなくなった体も後を追うようにして水の中へと引きずり込まれる。
 驚いて目を閉じれば体全体に感じる水の感触。おそるおそる目を開けば水面でみただろう光がずっと下に、奥にあった。泳いであそこまでいこうかと考えたが体は浮かび上がらずに降下し続けているし、 もうすぐ辿り着けるような気がしたから何も行動はおこさずにいたほうがいいだろう。それに、水の中だというのに視界は明瞭で、息苦しくはない。そして目も痛くない。
 そしてゆめにしてはリアルすぎて、現実にしては現実感が希薄すぎた。
 可笑しい、可笑しすぎる。そう疑問を持ち始めたときに光の少し手前へと到達し、足も水についた。(表現と してはおかしいが水しかない限りこういうしかない)
 そしてもう少し下にある、淡く光るそこを眺める。
 なんでだか、どうにかしてそれに触りたかった。
 どうしても、触らねばならない気がした。

 上の水面でしたように四つん這いになった。両腕を曲げて、力を。

「―   ― ――」




□◇□


「…ルック」
「……なに?」
「頭上にあった分厚い本はなに?」

 さぁ、みまちがいじゃないの、といけしゃあしゃあと答えるルックだが視線をあらぬ ところへとむけている時点で誤魔化していることなどばればれである。それに付け加え、ルックとしては 隠してるつもりみたいだが、後ろに回した本が大きすぎて見えている。
 なんとまぁ可愛いことをしているんだか。

「…あっそう。その本を頭に落として起こそうとしたわけね」
「ぼくがそんなことするわけないでしょ。もうご飯だからはやくきてよね」

 そういって部屋をでていくルックは逃げたようにしかみえなかった。その後ろ姿に はいはいという気のない返事を送り、ベッドからでて身支度を整える。
 そういえば、なにやら酷く不思議な夢をみていたような気がする。曖昧で、神秘的で、 冷たくて、だけど温かく、不変で、摩訶不思議なおかしな夢。たしか、最後になにかをいわれたようだったが、どうしても思い出せない。だいたい夢というものは普通覚えていないのが当たり前のことで、こんなにも不明瞭ではあるが覚えているだけで珍しいことなのだ。しかし所詮は深層心理がつくりだす幻のようなものだ。別に重要なことではないだろう。

「いまの自分にとって重要なことといえば」

 上着をはおり、身支度完了。寝癖は髪をかるく纏めることで誤魔化した。

「午後からの修行がうまくいくかいかないか、かな」

 今日もまた、盛大に溜息をつかせてしまうのかと思うと申し訳なくて仕方がない。深呼吸のように大きく溜息をつき、部屋の扉を閉めた。
 きっと、レックナートさんは席についてのほほんと待っているに違いない。 ルックも意味のあるようでないような仕事をわざと作ってこなしながら 待っていることだろう。これ以上遅くなっては小言は確実だ。それは御免被りたい。ただでさえ迷惑を かけるのだから。そろそろ本気で急がなければと、小走りで食卓へとむかうことにした。

 なんだかんだ考えておきながら妙にみた夢が気になるのはきっと気のせいだ。