ふとした瞬間、息がつまって窒息しそうな感覚に陥ることがある。それと同時に泣きたいくらいのなにかを感じて無性に走りたくなるのだ。 のどがひりついて痛いくらいに。 立ち上がることもできなくなるぐらいに。 走って走り続けて疲れ果て、死んだように眠る。 そうすることで何も考えずに、なにも感じることもなく、また何気ない日常へと戻っていく。 □◇□ 自分が生まれ育ったところはとても田舎で小さい町だった。そんな町を走りまわっては毎日何かを発見し、騒ぎ、世界の全てがそこにあるのではないかと錯覚していたのは幼い頃までだったが、そんな小さな世界に存在していたのは確かだ。海も、風も、山も、空も、全てが輝いていて全てが興味の対象となり駆け回った世界は、本当は世界の一部分だと知るまでには時間はかからなかったけど、それでも自分にとっては世界の全てだったのだ。 だから生まれ育った町を知り尽くしていたのは当たり前のことであったし、幼い頃から習慣となっている散歩という名のジョギングで、迷うはずがなかった。長い間離れていたとしても記憶は鮮明に残っている。時代に取り残されたかのように変わらない町を、故郷を、迷えるはずなどなかった。知らないところがあるはずもなかったのだ。 「・・・・、どこだよここは」 ぽつんと立ち尽くしているいまの場所を、自分は知らない。 足元にはふかふかした落ち葉と腐植土。見渡せば前後左右に広がる鬱蒼とした空間、森。知っている限りでは富士山の樹海などが上げられるがそれ以外では知らない。島国である母国は森が展開するほどの面積はなかったはずだ。もしかしたら知らないだけであるのかもしれないが、少なくとも自分が住んでいた町にはなかった、と記憶している。山と海ばかりが広がる、自然豊かな田舎。そこが自分の故郷。知り尽くしても知り尽くせなかった小さな世界。 「んー・・・・」 それでも知らない場所はなかったはずの故郷からしばらく遠ざかっていたが、僅か数年でここまで立派な腐植土ができあがるはずもない。でも歩くごとに少し沈む見事な土の上に自分は立っている。可笑しなことだ。 「あー・・・」 ふいに見上げた空は木々に切り取られてしまっていて小さく、狭くなっている。こんな光景、みたこともなかったし見る機会もなかった。いよいよ置かれた現状に困り果てるが、こうしていても何も始まらない。故郷をでてよかったことといえば度胸がついたことだよなぁ、とのんびり考えながら歩き始めた。目的地なんかない。とりあえずは森を抜ければいいのだ。そうすればこんなところに突っ立っているよりも何か打開策が開けるかもしれない。 なんとかなるだろう。そんな軽い気持ちで薄暗い森の中を歩く。依然として柔らかい土に体力を奪われてしまうが長年無駄に鍛えてきた体だ。このくらいで音をあげるほどではない、が。少し前まで走っていたことを考えると早々に体力は尽きそうだった。このような場合を想定する(というかできる)はずがないし、体力など残しているわけがない。早くこの森から抜け出せないだろうか。頬を伝う汗を拭い、視線をあげたところでそれは唐突にきた。 眩しい光が目に痛い。鬱蒼としていた森は途切れ、平らな大地が続いている。そしてそびえ立つレンガ造りの塔。開いた口がふさがらないなんて初体験だ。見上げていたら首が痛くなった。 「あんただれ」 響いた声に反応して視線を前に戻した。そこには全体的に緑色の、ゲームに出てきそうな服装をした七、八歳ぐらいの子供。すこしきつめの目に男の子にしては長い髪。推測される外見年齢にしては眼光が鋭い翡翠色の目が印象的だった。 「君はここに住んでんの?」 「きいてるのはこっちだよ。返答しだいでは覚悟してよね」 身長とは不釣合いな杖を構えると風もないのに少年の髪がなびいた。言葉から察するに、自分は排除されかかっているらしい。迷い込んだだけでその対処ってどこの金持ちですかどこのお貴族さまですか。いや、切りかえしが古いぞ自分。戸惑い、困り気味に少年を眺めていれば風が強くなって蜃気楼のように風の形がわかった。軽く目を見張って面白いなぁと呑気なことを思った。 少年の服の裾がひらひらと舞う。 「だんまりなわけ?それなら」 「ルック」 突然降って湧いて聞こえた第三者の声に心底驚いた。慌ててあたりを見回してもどこにもいないけど確実に聞こえた声。不思議そうに首を傾げ、奇妙に思っていると少年の隣に光が集まって人が現れた。手品ですか。 「レックナート様」 少年がきゅっ、と眉を寄せて光の中から現れた人を見上げる。何事だといわんばかりに現れた人を眺めていればにっこり微笑まれ、ついつい笑い返した。 「ルック、侵入者ではありません」 「しかし、」 「この方は“迷い子”です」 迷い子ってそのままじゃないか。そう思いつつも確かに自分は迷子なわけで否定する気も起きない。迷子といっても、少し前の状況を考える限り迷子になどなれるはずもないのだが。どこを歩いても記憶にある場所でどうやって迷子になれというのだどうやって。なれるのならばなれるという人に是非とも何故か聞いてみたい。 「とりあえず落ち着いて話をしましょう。ルック」 「・・・わかっています」 ぼんやりと思考を巡らせているとなにやら落ち着いたらしく、突然現れた人から視線を受けて塔までお越しくださいなどといわれた。隣に立つ少年はむすり、と見事な仏頂面で渦巻いていた風を霧散させる。自分としては現状を把握できるのならば願ってもないことだから構わないのだが、少年のほうは幼いながらにも端整な顔を歪めて小さな体躯には不釣合いの杖を肩に担いだ。年齢の割りに達観してる子なのかと眺めていれば視線があって一言、なに、と問われるが反射的になんでもないと返した。あぁ目に見えて不機嫌になっていく。 光から現れた人は再び光に包まれて、それが消えた頃にはいなくなっていた。少年は踵を返し塔へとむかう。 「なにしてるの、いくよ」 どうしようかと突っ立っていた自分にそういうと、もう振り返らずに歩いていった。 |